池鯉鮒(ちりゅう)の魅力を再発見!史跡巡りで出会った歴史と文化

社会学

こんにちは、あおいふなです!今回は「池鯉鮒(ちりゅう)」という名のつく愛知県知立市を訪れ、史跡巡りをしてきました。この地名に興味を持ったきっかけは、名前に「鮒」が含まれていることですね。

歴史的な場所を巡りながら、地域の魅力や古くからの文化に触れる素敵な旅となりました。
それでは、私が見てきた史跡や感じたことをぜひお楽しみください!

池鯉鮒についての解説

池鯉鮒(ちりゅう)は、東海道五十三次の39番目の宿場町「池鯉鮒宿」として栄えた歴史ある町です。
江戸時代、東海道は江戸と京都を結ぶ重要な交通路であり、池鯉鮒宿はその中でも賑わいを見せた宿場の一つでした。

ここでは旅人たちが休憩を取り、食事や宿泊が提供され、商業も盛んでした。
「池鯉鮒」という珍しい地名はもともと「池に鯉と鮒が多く生息していた場所」に由来し、豊かな水辺環境がこの地域にあったことを示しています。

実際に行って思ったのは、鯉や鮒どころか池もありません。全て埋め立てられてしまったのでしょうかね。今や知立という名前ですし名残さえも残っていないのは残念に感じます。

池鯉鮒宿脇本陣玄関

小松寺の境内にある脇本陣(よびの宿屋)になります。本陣の向かい側に建てられていました。
間口が3.6m、奥行き2.7、高さ3mの朱塗りで美しいものであったが、げんざいは移設されており、この小松寺の地蔵堂になっています。

池鯉鮒本陣跡

池鯉鮒本陣があった跡地。元々は大名や幕府の役人などが休泊するための施設であり門や玄関、式台、上段の間など数々の座敷を備えており一般の旅籠屋とは区別されていました。

現在は本陣は存在せず、敷地に石碑のみ残っている程度になります。

すぐ隣に建てられている明治天皇聖蹟の石碑の方が目立つ。
この池鯉鮒宿本陣は江戸時代の大名や公家、御勅使の為の宿泊施設だが、
明治帝が東京に遷座する際にも、こちらに宿泊されたという事なのかな。

知立古城跡

知立城は、知立神社の神主家であった永見氏の居館でしたが、桶狭間の戦いで落城しました。その後、近代になり跡地には部役所、明治用水水利組合事務所(現:明治用水土地改良区)が建てられ、事務所は後に知立町役場などに転用されたあと、昭和10年に知立神社境内へ移築しました。

旧東海道の跡にあった知立神社永見氏の居城跡です。ちょっとした公園になっています。
知立駅から知立神社に向かう途中に立ち寄りました。歴史を感じさせる素敵な場所です。

池鯉鮒松並木

並木は旅人を暑さや風雪から守るため、昔から為政者によって街道の植がすすめられてきました。知立では宿の東に500mにわたって松並木が残っており、その北の野では江戸時代、4月から5月の頃に馬市が開かれ賑わっていました。

池鯉鮒(知立)の松並木です。江戸時代の街道松並木が残っている貴重な遺構です。
すぐ脇には明治用水が流れ、歩道も整備されています。江戸の時代に思いを馳せながら歩く事ができます。

片目のコイ

唯一コイの銅像がありました。片目のコイという物語がありましたね。

無量壽寺

無量寺は白風時代に創建された寺で、明治44年~45年頃にかきつぱた庭園が整備され、境内の八橋史跡保存館では八橋の歴史と在原業平や方&売茶に関わる品を展示しています。

八橋は、平安の歌人在原業平がかきつばたになぞらえた歌を詠んだことで知られており、国には3万本のかきつばたが植えられています。

かきつばた寺として有名のお寺です。

先生
先生

5000円札の裏に書かれているかきつばたの絵は無量寿寺を採用しています。

男の子
男の子

まぁ、残念ながら行った時期は花咲いていないですね。

知立神社

知立神社は、熱田神宮、三嶋大社に並ぶ東海の名社です。5月2日、3日には知立まつりが開催され、本祭の際には、山車の上で文楽とからくりが上演されます。

また、境内にある多宝塔は国の重要文化財に指定されており、神仏習合を今に残す構です。

東海道から少しだけ離れますが、立ち寄る価値がある素晴らしい神社です。
ここの神様に目の病気の回復を祈祷したところ、鯉の片目と引き換えに視力が回復したとのことです。

まとめ

という事で、今回は池鯉鮒の史跡巡りをしてきました。

池鯉鮒の史跡巡りは、歴史や文化を身近に感じる貴重な体験でした。
とは言いつつ、フナには会えず、石碑などしかありませんでしたが、
雰囲気を楽しむことができましたね。

次回の旅でも、新たな歴史の一面に触れたいと思います。ぜひ、みなさんも池鯉鮒を訪れてみてください!

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