
今回は「淀川の治水とワンド」について解説していきます。昔の淀川ではたびたび大きな洪水が起きていて、そのたびに人々は困っていたんだよ。

えっ、あの大きな川がそんなに危なかったんですか?今は穏やかに見えますけど…。

そうなんだ。実はその背景には明治時代に行われた大規模な治水工事があるんだよ。そして、その工事によって生まれた「ワンド」という場所も、すごく面白い役割をしているんだ。

ワンドって何ですか?池みたいな場所のことですか?
大阪平野の成り立ちと水害

現在の大阪平野は、はるか昔には海の底でした。その後、淀川などの河川が上流から運んできた土砂が堆積することで、長い年月をかけて陸地へと変化していきました。
しかし、この平野は地形が低いため、かつては頻繁に水害に見舞われる土地でもありました。特に淀川流域ではたびたび大規模な洪水が発生しており、人々の暮らしを脅かしてきたのです。
明治18年の大水害と橋の流出
中でも明治18年(1885年)に発生した大洪水は、記録的な被害をもたらしました。3日間にわたる大雨の影響で、淀川の堤防が各地で決壊。大阪の町は一面水に覆われ、当時架けられていた橋の多くも流されてしまいました。
この災害が、淀川の本格的な治水工事のきっかけとなったのです。
淀川の治水工事と3つの大改造
水害対策として進められた淀川の治水工事は、単に堤防を強化するだけでなく、琵琶湖から大阪湾までの広い流域を対象とした壮大なプロジェクトでした。以下の3つが主な工事内容です。
① 瀬田川洗堰(あらいぜき)の建設

琵琶湖から流れ出る瀬田川の水量を調整するため、「洗堰(あらいぜき)」という水門施設が建設されました。
② 宇治川の付け替え

従来、桂川に合流していた宇治川の流路を変更することで、水の流れをよりスムーズにしました。
③ 新淀川の開削
旧淀川の下流部は川幅が狭く、蛇行が多いため、洪水が起きやすい構造でした。これを改善するため、新たに直線的で幅広い「新淀川」が開削され、現在の河川構造が形成されました。
治水の立役者「大橋房太郎」と「沖野忠雄」
この淀川改修において大きな役割を果たしたのが、大阪府会議員の大橋房太郎です。明治18年の水害の被害を目の当たりにし、何度も国に対して治水事業の必要性を訴え続けました。その熱意が実を結び、明治29年(1896年)から本格的な工事が始まりました。
工事の指揮を執ったのは、土木技師の沖野忠雄。彼はフランスで土木工学を学び、帰国後に最新の技術や外国製の掘削機、浚渫船などを導入して、日本でも類を見ない近代的な治水工事を進めました。
治水によって大阪の暮らしが変わった
治水工事が完了したことで、洪水の危険が大幅に軽減されました。
これにより、かつて田畑が広がっていた大阪平野には住宅や商業施設が建てられるようになり、多くの人が安心して暮らせるようになりました。
治水工事が生んだ自然環境「ワンド」

治水工事の一環として行われたのが「粗朶沈床工(そだちんしょうこう)」です。これは、クリやナラなどの枝を束ねてマット状にし、それに石を積むことで川の流れを一定方向に集め、水深を深くするという方法です。
この工法により、川底の土砂が流れやすくなり、大型船の通航が可能になりました。そして、この水制工事の副産物として、川沿いには自然とワンド(湾処)が形成されるようになったのです。
ワンドとは?

ワンドとは、淀川本流から外れた入り江状の浅い水域のことで、小魚や貝、昆虫などが安心してすめる環境です。流れが穏やかで、水草や藻類も豊富に育ちます。


ワンドは、淀川における生物多様性の宝庫であり、多くの生き物たちにとって大切な「ゆりかご」となっています。
木曽川とワンド


木曽川水園では木曽川下流部で形成されたワンド状の水域を再生しています。
ワンドは水の流れがあまりないため、止水域にすむ魚たちには暮らしやすく、水辺の植物の生えているところは魚の産卵や、小魚、稚魚が暮らす絶好の場所になっています。
まとめ|人の知恵がつくった安全と自然
淀川の治水事業は、水害の防止という目的のために始まりましたが、その過程で「ワンド」という豊かな自然環境が育まれました。
人の暮らしを守るための土木工事が、結果として自然との共生の場を生み出したのです。

ということで今回は「淀川の治水とワンド」について解説していきました。
洪水を防ぐための工事が、自然豊かなワンドを生み出すなんて、面白いと思わないかい?

はい、すごく驚きました!
人の手で川の流れを変えて、自然までできるなんてすごいですね!

そうだね。自然と人間の知恵がうまく重なったいい例なんだよ。
ぜひ実際に淀川のワンドを見に行って、生き物や風景に注目してみてね。

はい、今度の週末に家族と行ってみます!
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