
今回は「ビオトープにフナがいない理由、でもなぜか思い出してしまう理由」
についてお話ししていきます。
ビオトープと聞くと、メダカやドジョウが思い浮かぶ人も多いかもしれませんね。

うん、私もビオトープって言われたら、メダカが泳いでるイメージです!
でも、なんでフナはあまり見ないんですか?

それには環境的な理由があるんですよ。
でも、じつはビオトープとフナには、昔の自然のつながりがあるんです。
ビオトープにはいくつかの種類がある



身近なビオトープといえば、睡蓮鉢、トロ舟、小さな池などが挙げられます。いずれも人工的に作られた小さな水辺空間で、水生植物や昆虫、小型の魚類などが暮らせるよう工夫された場所です。
ビオトープにいる魚といえば、メダカ、モツゴ、ドジョウなどが代表格でしょう。では、なぜそこにフナはいないのか?という疑問が浮かびます。
淡水魚はそもそも「自然に侵入しにくい」


トンボやカエルは空を飛んだり地面を移動したりして、ある程度自力で新しいビオトープにたどり着くことができます。しかし、淡水魚は水の流れがなければ移動できません。つまり、自然の状態でビオトープに魚が入り込む可能性は極めて低いのです。

そのため、ビオトープに魚がいる場合、ほとんどが人為的に放流されたものだと考えられます。
それでもフナが導入されない理由

フナが導入されない最大の理由は、その体の大きさにあります。種類にもよりますが、フナは成長すると20cmから30cm以上になることもあり、小規模なビオトープにはサイズ的に不向きです。
家庭用の睡蓮鉢やトロ舟では、フナが十分に泳ぎ回ったり、産卵や越冬をしたりするスペースがありません。結果として、メダカのような小型魚が選ばれるというわけです。
フナが思い浮かぶのはなぜ?

それでも私は、ビオトープを見るとついフナの姿を思い浮かべてしまいます。これは単に私がフナ好きな「フナ脳」だからというだけではありません。
言葉にしにくい感覚でしたが、考えていくうちに一つの答えにたどり着きました。
それは、ビオトープの原型が「氾濫原湿地」であるということ。

そして、さらに現代になると、湿地環境を模したビオトープが再び注目されるようになりました。
氾濫原湿地とは?

日本は古来より雨が多く、川が氾濫しやすい国土でした。川があふれ、周辺の土地が水浸しになることで、一時的に水がたまる湿地があちこちにできました。
これが「氾濫原湿地(はんらんげんしっち)」と呼ばれる環境です。
このような湿地には、川から魚たちが侵入し、水没した植物の根元に産卵し、そのまま稚魚が育つゆりかごのような役割を果たしていました。
その中に、フナ、ナマズ、ドジョウといった魚たちがいたのです。
氾濫原湿地 → 田んぼ → ビオトープへ

現代では、治水や土地開発の影響により、氾濫原湿地はほとんど見られなくなりました。代わりに、その機能を田んぼが担うようになりました。
梅雨や大雨の時期になると、用水路から田んぼにフナやナマズが上ってきて産卵する様子が、今でも一部地域で見られます。つまり、日本の農耕文化の中で、人と魚は共に命を育んできたのです。
ビオトープの植物がフナを思い出させる

ビオトープに植えられている抽水植物の根元や茂みを見ると、ふと「このあたりにフナの稚魚が隠れていそうだな」と思ってしまいます。
「この水草の影でフナが産卵していたかもしれない」と感じるのです。

それは、ビオトープが目指している自然の姿が、
かつてフナが生きていた湿地環境に近いからなのかもしれません。
でも、現代のビオトープには河川とのつながりがない

ただし、現代のビオトープと氾濫原湿地には決定的な違いがあります。
それは、周囲の水域とのつながりがないことです。
ビオトープの多くは人工的に作られた水鉢や池であり、川や用水路と接続していません。そのため、フナが自力で入り込むことはなく、またサイズ的な問題からも人為的に導入されることもほとんどありません。

その結果、フナの代わりにメダカやモツゴ、ドジョウといった小型の魚が選ばれるのです。
フナを見たいなら「池」や「湖」のスケールが必要

フナが健康に育つためには、それなりの広さと深さを持つ水域が必要です。
個人の手作りビオトープでは、環境として不十分なのが現実です。
だからこそ、ビオトープや湿地にフナの姿がないと、私はどこか寂しい気持ちになります。それでも、抽水植物が揺れる水辺を見ると、つい「ここにフナがいたらいいな」と想像してしまうのです。
まとめ

ということで今回は、「フナがいないビオトープと、でもフナを感じてしまう理由」について解説してきました。

フナは田んぼや湿地で生きてたんですね。
そう聞くと、ビオトープの水草の影にフナがいそうな気がしてきます。

そうですね。
たとえ今はいなくても、フナの記憶や生態は、自然の中に今も息づいているのかもしれません。
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