【琵琶湖の漁業】湖国漁師の生活と歴史

水産学

ども、あおいふなです。今回はフナを獲って暮らしをしていた湖国漁師の生活史について語っていきたいと思います。

近江(滋賀県の古い名称)にとって琵琶湖は母なる湖ということができると思います。近江歴史と文化を語るには琵琶湖を抜きにしては語れないほど琵琶湖は近江に深い関わりを持ってきました。

はじまり

琵琶湖が滋賀県の現在の地に落ち着いたのは今からおよそ100万年前のことです。それまでは三重県の伊勢盆地を中心にして滋賀県の甲賀地方も古琵琶湖の湖底にあったと言われています。それから何百万年もかかって北上し、今のような琵琶湖が出来上がったのです。

人間が琵琶湖の周りに住み着くようになったのは約一年前のことです。琵琶湖から流れ出す唯一の川である瀬田川の湖畔で現在の石山寺付近の縄文時代の遺跡(石山貝塚)がはっけんされています。

石山貝塚からはセタシジミを中心に多くの種類の淡水産貝の貝殻やフナ・コイなどの骨が出土しています。貝塚というのは当時のゴミ捨て場で、そこから出土するものを調べますと、当時の人々がどのようなものを食べていたのかおよそのことを知ることができます。石山貝塚に住んでいた縄文人たちは、琵琶湖や瀬田川でシジミやスッポンをとって食料としていました。

縄文時代

では縄文人たちは魚や貝をどのような方法でとらえていたのでしょうか。莫大な量の貝殻に混ざって、魚の骨で作った釣り針やシカの骨から作ったヤスなどが出土しています。このことから人々は釣ったり、突きさしたりする方法で、魚を捕まえていたことがわかります。

また、当時の川はしばしば氾濫しましたが、それがおさまると浅瀬や水溜りが残されます。これも徐々に狭めていって魚を撮るといった方法もあったと考えられます。この方法は私たちが子供の頃にも行った記憶があるでしょう。さらに興味深いことは石錘(石でできたオモリ)や土器片を加工したオモリが出土しており、形などから漁網などに使ったと考えられることです。

このように1万年もの昔に魚を釣ったり・刺したり・網を使ったりという、漁法の基本的な方法が縄文人たちによって発明されていたことは驚くべき事実です。

近江八幡市の元水茎遺跡は縄文時代後期(今からおよそ3.200年前)の遺跡ですが、ここから一本の木をくり抜いて作った丸木舟が合計7隻発見されました。この中で最も大型の丸木舟は幅1m、全長8mというものです。縄文時代の丸木舟は全国的に見て出土例が少ない上に7隻も大量に見つかったことが学界から注目を集めました。

以上のことから、琵琶湖畔に住む縄文人たちは、舟をあやつり、釣りや網などで魚を捕まえていたことが分かります。

その後の弥生時代や古墳時代の人々が使用した漁具も琵琶湖畔の遺跡から数多く出土しています。農業社会が確立しても、琵琶湖の周りに生活する人々にとっては、漁撈もまた生活の糧を得るための重要な仕事であったことには変わりなかったのです。 

奈良時代

時代は下って、奈良時代になると日本の律令国家が成立します。強力な中央国家のもとで、租、調、庸をはじめ厳しい税制がひかれました。その中で調は諸国の特産物を貢献するものでしたが、当時の記録によりますと、近江国では、紙や絹にまじって醤鮒(タマリ漬けのフナ)・阿米魚(ビワマスの別称)・煮塩年魚(アユの塩煮)・氷魚(鮎の稚魚)などが琵琶湖の特産品としてあげられています。このことからも、琵琶湖の漁撈が活発に行われていたことが知られるのです。

平安時代と御厨

平安時代になると、これらの水産物を貢献する人々が特定集団を作って、琵琶湖畔に定着するようになります。それを御厨(みくりや)と呼び、それに従事する人々を供御人などと呼びます。

粟津橋本の供御人・堅田御厨(以上大津市内)、筑摩御厨(米原町)、安曇川御厨(安曇川町)などが有名です。

ここでは琵琶湖の諸浦の親郷と言われた堅田をとりあげ、中世社会の中でどのように発展してきたかを見ていきましょう。

堅田は琵琶湖が最もくびれて琵琶湖大橋が架かられている西岸に発達した集落です。堅田が資料にあらわれるのは11世紀後半(今から約900年前)です。1090年の京都の下鴨社の御厨となっています。その時、毎日の御膳料鮮魚を下鴨社へ調達し、その反対に他の課役は一切免除され、さらに湖上を自由に往来し、どこでも漁撈をすることができる特権を下鴨社からあたえられました。

また、同時に延暦寺の支配も受けたようです。中世社会では人に対する支配と土地に対する支配とは違いましたから、堅田の人々は供御人として下鴨社としての支配を受け、堅田庄民として延暦寺の支配を受けたのです。これは堅田の人々にとっては二重の負担であったことも事実ですが、また言いかえれば、当時の権勢を誇っていた二大勢力の後盾を得た事になるのです。この後盾を背景に、堅田は琵琶湖の独占を画策して大きくなっていったのです。つまり、他の御厨も最初は同じように湖上の自由通行権を保証されていました。

堅田の人々が最初の漁場の拡大の目的として訴えたのが、先程の1090年であったのです。彼らは北方の安曇川河口付近の近くまで漁場を拡大しましたが、安曇川が京都の上加茂神社の御厨(堅田は下鴨社の御厨)であるとわかると、安曇川の半分を下鴨社の御厨として確保しようと申請を行っています。この結果は史料がないので不明ですが、このようなことが主張しうるほど堅田の勢力が大きくなっていたことだけは、この事件からうかがうことができます。

次に沖島の葦をめぐって、守護の佐々木氏と衝突したのが鎌倉時代の中ごろです。裁判は鎌倉幕府に持ち込まれました。佐々木氏は鎌倉幕府が創設されるとき、源頼朝の片腕となって活躍した武家で、中世約400年を通じて近江を支配した大名です。このような強力な武家と裁判でたたかうのですから、堅田側にもよほどの援助と実力がなければなりません。その後盾となったのが、先ほど述べた下鴨社と延暦寺でした。そして、堅田の主張は「六角殿は海(琵琶湖)より東地御知行也。堅田は湖十二郡を知行(支配)致、成敗を仕り候」というように、六角氏(佐々木氏の主流)は、湖東平野を支配し、堅田は湖上全域を支配してきたという前例があるというのです。裁決は堅田側の主張を認めるという判決が下されましたが、この帰路に六角氏によって堅田側の人々は殺害されたといいます。

室町時代

室町時代(15世紀初頭)には湖北の菅浦(西浅井町)と漁場の争いをしています。これは菅浦側がよその者が縄を入れてはいけないと主張している漁場に、毎夜堅田の人々が来て網を入れるので、菅浦の若者が腹にすえかねて堅田側の船を壊し、網を没収したのが発端でした。菅浦の人々は「堅田人の当浦へ寄せ候の由評議仕り候上(は)是非なく候」として善後策を練っていたところ、後小松天皇綸旨が下り(菅浦は天皇側の供御人となっていた)、両者和解に向かったのです。この時、堅田側が菅浦に契約状を提出しました。内容は、「竹生島あたりを南限として塩津の沖合から小野江(尾上)、海津大崎の沖合は、菅浦側の占有漁場として認め、堅田の者はそこでは網を打たないことを契っています。

以上の漁場獲得のために行った訴訟の堅田の言い分は、舟の行ける所はどこでも下鴨社の供祭所(御厨)であるという点であったのです。このような湖上の自由通行権や漁場権は全て御厨が持っていたものです。したがって、菅浦との訴訟の結果、一部とはいえ堅田の人々が入れない領域を菅浦に認めたことは、堅田側の後退である反面、先ほど述べたような狭い領域に菅浦側を封じ込めたことは堅田側には有利なことであったのです。

堅田と上乗権

このように堅田は訴訟を繰り返すことによって漁場を徐々に拡大していったのです。それと合わせて、堅田が飛躍的に発展したのは、上乗権という湖上特権を獲得していることです。上乗権というのは、湖上を通行する船に乗り込み検閲などをする権利のことを言います。

この命に従わない船には「かいそく(海賊)をかくる」ことになったのです。これが「堅田湖賊」と呼ばれ、恐れられた原因です。琵琶湖の浦々は湖上の航行の安全を図るため、堅田に礼金を納めて、堅田住人の家紋のはいった旗などを船にかかげて航行したのです。

ここで忘れてはならないのは、琵琶湖の浦々の人々は漁業で生計を立てると共に、水運にも従事し、東国や北陸から京都に集められる大量の物資を舟運で輸送する。仕事も行っていたことです。したがって、漁民はある一面では運送業者だったのです。ですから、彼らは水運を円滑に処理するためにも、自由に各港に出入りできる権利を求めたのです。

しかし、堅田住人たちが延暦寺と下鴨社の強力な後盾で上乗権を手中に納めたことは、堅田が諸浦の親郷として琵琶湖に君臨する最大の武器を獲得したことを意味したのです。また、このような特権を可能であったのは、延暦寺や下鴨社が後盾となっていたことよりますが、それに加えて堅田の地理的条件にも見逃すことができません。先にも記したように、琵琶湖を往来する船を監視するにあたって、一番幅の狭い位置に陣取っていたわけですから、黙って通行しようものなら、直ちに見つけることができたのです。

以上のように、堅田の人々は地理的条件や社会的・歴史的背景を巧みに利用して諸浦の漁民を押さえ、一大勢力となっていったのでした。それは決して簡単なことではなく、長く険しい道であったと思われます。そして、何よりも力強いことは、このような伝統が数百年たった今も根強く残っていることもあり、歴史の世界に大きな足跡を残したことであると思われます。これはなにも堅田だけのことではなく、琵琶湖の諸浦に言えることであり、それが近江の歴史を豊かなものにしているのです。

漁民の日常生活

さて、それでは漁民の日常的な生活はどうだったのでしょうか。竹生島のほぼ真北にある菅浦を例にとって見ていきましょう。

菅浦では現代でこそ道が整備され、自動車で簡単に行くことができるようになりましたが。一昔前までは「陸の孤島」と呼ばれ、船が唯一の交通の手段でした。従って、時代の波が菅浦に押し寄せるには時間がかかったのです。今も菅浦には中世の残影をそこかしこに見出すことができます。

そして、菅浦を全国的に一躍有名にしたのは、菅浦の氏神である須賀神社に伝来した膨大な古文書(重要文化財)なのです。大正6年のことでした。それまで「あけずの箱」に納めていたのですが、中村直勝・牧野信之助の二人の学者によって発見され、紹介されたのです。この文章を調べることによって、中世菅浦の歴史を克明に知ることができます。

それはさておき、交通の手段でしかなかった菅浦の人々にとっては、天候を予知することが最も重要なことであったのです。

近江では3月ごろ琵琶湖が荒れることを比良八講と呼んでいますが、この頃午前2、3時に比良山の上空で「ピカッ」と光る現象が起こる場合があります。これが見られると翌日の午後は必ず大疾風が起こると言われています。また、「蜂の巣占い」と言って、針が風当たりの少ない場所に巣を作る年は大型の台風がくるとも言われています。さらに、春の湖面が高ければこの年は豊漁で、低ければ不漁だとも言われています。その他まだまだ多くの天候予知の仕方や諺が今も生きています。それらは長い歴史や経験を通じて漁民たちが肌で感じ取った生活の知恵なのです。

最後になりましたが、今までの日本の歴史は農業社会の歴史を中心に組み立てられてきたと言っても過言ではありません。しかし、最近になってようやく日本的のもう一つの側面である漁民社会にも光を当てた研究が行われ始めました。始まったばかりのこの研究が次々と日本社会の基底部を解明する成果を蓄積しつつあります

参考文献

琵琶湖の魚と漁具・漁法 1984年
発行滋賀県立琵琶湖文化館
印刷 (有)森田印刷
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