信濃川と大河津分水 ― 洪水と闘った人々の歴史

環境学
先生
先生

今回は「信濃川と大河津分水」について解説していきます。
長い歴史を持つ川と、それに関わる人々の取り組みを知ることで、
地域の発展や自然との関わりが見えてきますよ。

男の子
男の子

川と人との関係って、思っていたより深いんですね。
お話を聞くのが楽しみです。

先生
先生

そうですね。
川は恵みをもたらす一方で、時には大きな試練も与えてきました。その中で人々がどのように工夫してきたのかを見ていきましょう。

女の子
女の子

なるほど、歴史を知ると今の風景の意味もわかりそうですね。

日本一の大河・信濃川

信濃川は全長367km、日本で最も長い川です。

山梨・埼玉・長野の3県にまたがる甲武信ヶ岳を源にする千曲川と、北アルプスの槍ヶ岳から流れる梓川・犀川が合流し、新潟県に入ると「信濃川」と呼ばれます。

さらに谷川岳からの魚野川を合わせ、越後平野を潤しながら日本海へ注ぎます。

先生
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その豊かな水は農業や工業を支え、人々から「母なる川」と呼ばれてきました。

恵みと災い

昔、信濃川は舟運の道として、内陸と日本海を結ぶ交通の大動脈でした。
しかし一方で、越後平野は低地で水はけが悪く、海岸の砂丘が水の出口をふさいでいました。

先生
先生

そのため大雨のたびに氾濫し、3〜4年に一度は大きな洪水が起こりました。
人々は肥沃な土地を得る代わりに、洪水という大きな代償を支払いながら暮らしてきたのです。

芦沼と稲作

かつて信濃川下流域には潟や沼が点在し、ヨシやマコモが生い茂る湿地が広がっていました。
このような地は「芦沼」と呼ばれました。

そこを切り開き、泥を入れて田を作ったのが沼田・深田です。腰まで水に浸かって行う稲作は過酷で、豪雨が来れば田が水没し収穫も失われました。

しかし、この厳しい環境から「舟農業」と呼ばれる独特の農法や、作業を助ける道具が考案されました。

先生
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また、田が泥の中で浮かび上がり、
流されてしまう「浮田」という現象も起こり、人々は自然と必死に向き合っていたことがわかります。

信濃川とフナ

信濃川流域は、古くからフナが数多く生息してきた地域でもあります。
現在確認できているフナは4種類です。

信濃川で見られるフナ
  • ギンブナ
  • キンブナ
  • ゲンゴロウブナ(ヘラブナ)
  • オオキンブナ

最も身近な種類はギンブナで、新潟市周辺の用水路や田んぼの水路、ため池などに広く分布しています。銀白色の体を持ち、群れで泳ぐ姿は農村の水辺の風景を象徴してきました。

一方、黄金色を帯びたキンブナは、支流や池沼といった流れの緩やかな環境に生息し、地域の漁や観賞用として利用された歴史があります。

さらに、釣りの対象魚として知られるゲンゴロウブナ(ヘラブナ)は、信濃川本流の緩やかな場所や湖沼に棲み、戦後以降の釣り文化を支えてきました。

加えて、やや大型に成長するオオキンブナの分布も報告されており、越後平野の水辺はまさにフナの多様性が息づく場といえます。

このように信濃川流域のフナたちは、人々の暮らしや農業、釣り文化と結びつきながら、水辺の豊かさを伝えてきた存在なのです。

横田切れ ― 大洪水の記憶

先生
先生

信濃川の洪水の中で特に有名なのが、明治29年(1896)の「横田切れ」です。

燕市分水町横田付近で堤防が決壊し、濁流は西蒲原郡から新潟市までを一面の泥海に変えました。

この大洪水は地域に壊滅的な被害を与え、人々の記憶に深く刻まれました。

大河津分水 ― 悲願の工事

信濃川の洪水を防ぐために考えられたのが「大河津分水」です。
大河津付近で川を分け、水の一部を直接日本海へ流すという大計画でした。

最初の工事は明治2年(1869)に始まりましたが、人力に頼る作業や財政難、反対運動により中止されました。

再び工事が決まったのは明治40年(1907)。
当時最新の土木機械が導入され、延べ1,000万人もの人々が携わる「東洋一の大工事」が始まりました。標高100mの山を切り開き、膨大な土を運び出す作業は「東洋のパナマ運河」とも呼ばれました。

そして大正11年(1922)、ついに分水路に水が通され、13年に及ぶ工事が実を結びました。

試練と改良

しかし完成直後の昭和2年(1927)、自在堰が崩れる事故が発生。
機能を失った分水を救うために、急ピッチで可動堰(旧可動堰)が建設され、昭和6年(1931)に再び動き始めました。

その後も堰の改修や補強が続けられ、現在まで信濃川の流量をコントロールし続けています。

分水の仕組み

信濃川が最も日本海に近づく大河津から野積海岸までの約10kmに分水路が作られました。
ここで洪水時の余分な水を海へ流し、下流域を守ります。

先生
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洗堰と可動堰を使って流量を調節することで、越後平野の安全が保たれているのです。

大河津分水の恩恵

大正11年に分水が通水して以来、信濃川や中ノ口川の下流で堤防が決壊したことは一度もありません。

水害が減ったことで交通網が整備され、鉄道や高速道路が平野中央に通るようになりました。

さらに、新潟市では川幅が狭まったことで3代目萬代橋が短く建設でき、その周辺に県庁や万代シティが誕生しました。街の発展に直結したのです。

また、農業にも大きな影響がありました。
かつて「鳥またぎ米」とまで呼ばれた新潟の米は、乾田化の進展により品質が向上し、収穫量も2〜3倍に増加しました。

先生
先生

今日の新潟が日本有数の米どころとなったのは、大河津分水の存在があったからこそです。

おわり

信濃川は人々に豊かさをもたらす一方、度重なる洪水で大きな犠牲をもたらしてきました。その歴史はまさに「川と闘い、川と共に生きる歴史」です。大河津分水の完成によって人々の暮らしは守られ、越後平野は日本有数の穀倉地帯として発展しました。

今日、私たちが新潟の街並みやおいしい米を享受できるのは、先人たちの努力と信濃川との長い格闘の結果なのです。

先生
先生

今回は「信濃川と大河津分水」について解説していきました。
自然と人との関わりの中で、地域がどのように発展してきたのかを知ることができましたね。

男の子
男の子

はい、
人々の工夫や努力が今の暮らしにつながっていることがよくわかりました。

先生
先生

そうです。
歴史を振り返ると、普段の風景や生活が新しい意味を持って見えてきます。
これからも身近な地域の歴史に注目してみてください。

女の子
女の子

はい、
もっと身近な場所の歴史も調べてみたくなりました。

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環境学陸水学

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