
今回は「ズートピアと魚」について解説していきます。

ズートピアっていろんな動物が出てくる作品ですよね。
でも魚ってあまり見かけない気がします。

いいところに気がつきましたね。
実はそこには、この作品ならではの考え方が隠されています。

なるほど、どんな意味があるのか気になります!
世界観の境界線と、存在しないものの意味

映画『ズートピア2』を鑑賞して感じたことは、単なる続編映画の感想にとどまらず、「世界観の設計」という点で非常に興味深いものでした。
特に印象に残ったのは、ズートピアという社会の中で魚類がどのように扱われているのか、あるいはなぜほとんど登場しないのかという点です。
純粋に作品として楽しんだからもうええやんとは思いますが、魚好きの私からするとここのラインはやっぱり気になるものです・・・。
本記事では、映画の鑑賞記録とあわせて、魚類という存在がこの世界観の中でどのような位置づけにあるのかを考察してみたいと思います。
続編として完成度の高い『ズートピア2』


『ズートピア2』は、前作の魅力をしっかり受け継ぎながら、自然な形で世界観を広げた作品でした。
物語は前作の延長線上にあり、主要キャラクターであるジュディとニックの関係性も丁寧に描かれています。
続編作品の中には、前作の成功を踏まえてスケールだけを大きくするものもありますが、
本作はそうした方向には進まず、キャラクターの成長や関係性の変化を中心に据えた物語になっています。
そのため、派手さよりも「安心して楽しめる続編」という印象が強く残りました。
また、新しい動物の登場によってズートピアの世界がさらに広がっている点も印象的でした。
ビーバーや海獣など、これまであまり描かれてこなかった動物たちが登場することで、都市の多様性がより具体的に感じられるようになっています。
動物の身体構造や習性を生かしたユーモアも健在で、細かな演出には思わず笑ってしまう場面も多くありました。
個人的には、物語をニックの視点に近い立場で見ていました。
ジュディの行動力は爽快で魅力的ですが、時には勢いが先行してしまう場面もあり、「少し大丈夫かな」と感じながら見守る感覚がありました。
特に印象的だったのは、ニックが危険な状況からジュディを救ったにもかかわらず、その結果だけを理由に責められてしまう場面です。
このシーンには少しモヤっとする感情も残りましたが、キャラクター同士の関係が理想化されすぎていない点に、かえってリアリティを感じました。
全体として、本作は感情を大きく揺さぶるタイプの映画というよりも、終始「楽しい」という感覚が持続する作品だったと言えるでしょう。
ズートピアの世界に魚がほとんど登場しない理由

映画を見ていて改めて気づいたのは、ズートピアの社会がほぼ完全に哺乳類によって構成されているという点です。
ウサギ、キツネ、ライオン、ゾウ、ナマケモノなど、多くの動物が登場しますが、基本的にはすべて哺乳類です。
今回は爬虫類の登場はありましたが、その生物の特徴をうまく再現した上での登場であり、違和感なく作品を楽しめたのはさすがはディスニーといったところです。
一方で、魚類は社会的なキャラクターとして登場しません。
作中では海獣のエサとして魚が一瞬描かれる場面がありますが、それは人格を持ったキャラクターではなく、あくまで背景的な存在として扱われています。
これは偶然ではなく、ズートピアという世界観を成立させるための意図的な設定だと考えられます。
というのも、ズートピアは「動物が人間のように社会を作って暮らしている世界」です。
そこには法律や職業、都市のインフラなど、人間社会に近い仕組みが存在しています。そしてその社会は、動物自身の主体性によって成立しているという点が重要です。
しかし魚という存在は、多くの文化において「食べられる存在」「利用される存在」として認識されてきました。
もし魚を社会的な市民として強く描いてしまうと、魚を利用してきた人間社会の存在を連想させてしまう可能性があります。
ズートピアの世界は「人間が存在しない世界」として設計されています。そのため、人間との関係性を強く想起させる存在は、意図的に物語の中心から外されているのかもしれません。
つまり魚は、「描けない存在」というよりも、
「描かないことで世界観を守っている存在」と考えることができます。
『ファインディング・ニモ』との世界観の違い


魚が主役の作品として思い浮かぶのが『ファインディング・ニモ』です。
しかし、この作品とズートピアは、似ているようで根本的に異なる構造を持っています。
ニモの世界では、人間は外部の存在として描かれます。
魚たちは人間社会の中に住んでいるわけではなく、むしろ人間から逃げたり、捕まらないように生き延びたりする存在です。
つまりニモは「魚の視点から見た世界」を描いた物語です。
一方でズートピアは、「人間社会を動物に置き換えた寓話」として構築されています。
動物たちはまるで人間のよう描かれ、社会問題や多様性といったテーマが表現されています。
この違いによって、ニモのような魚中心の物語をそのままズートピアの世界に持ち込むことは難しくなります。
あくまでもニモは「魚の社会」を描く物語であり、ズートピアは「人間社会を動物で表現する物語」だからです。
描かないことで成立する世界

ズートピアの世界観は、あらゆる生き物を登場させることで広がるタイプの作品ではありません。むしろ、何を描かないかを慎重に選ぶことで成立している作品だと感じました。
サルやゴリラのような霊長類が存在しないと言われている点も、魚が社会的なキャラクターとして描かれない点も、
生物学的な理由ではなく、物語構造を守るための境界線と考えることができます。
人間に近すぎる存在は置かない。
人間に利用される文脈が強い存在には踏み込まない。
こうした線引きによって、ズートピアは「人間がいなくても成立する社会の物語」として強い世界観を保っています。
まとめ ― 魚がいないことの意味

今回は「ズートピアと魚」について解説していきました。

魚がいない理由って、生き物としての問題というより、
世界観を守るためだったんですね。

その通りです。
何を描くかだけでなく、何を描かないかも大切な設計なのです。

作品の見方が変わって、より深く楽しめそうです!
『ズートピア2』を鑑賞して感じたのは、作品の面白さだけではなく、「世界観の設計」が非常に丁寧であるという点でした。
なぜ魚が社会の一員として登場しないのか。
なぜ霊長類がいないのか。
その答えは、この作品が何を描き、何を描かないかを慎重に選び続けているからだと考えられます。
魚という存在をあえて中心に置かないことで、ズートピアは人間社会の寓話としての構造を保っています。そしてその境界線を理解することで、この作品の世界がよりクリアに見えてくるように感じました。
もし将来、ズートピアの世界に水中都市や魚の社会が描かれることがあるなら、それはまた別の物語として興味深いものになるかもしれません。しかし現時点では、魚が「いないこと」そのものが、この作品の世界観を支える重要な要素になっていると言えるでしょう。

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